ミュシャ展国立新美術館 2017.4.30 ミュシャ展 再び

ミュシャ国立新美術館 http://www.nact.jp/exhibition_special/2016/alfons-mucha/

国立新美術館(東京・六本木) 2017年3月8日(水)から6月5日(月)まで、「ミュシャ展」 開催

今の日本で、観るなら、明日まで!!!

うちゅうみは、これほどに「実際に原画を観る」という事の重要さを感じたことはありませんでした。
絵に、魂があると、本当に、そう感じました。

以下、F.kosakaiの熱き国立新美術館ミュシャ展」への想い。
明日までです!!!
お時間あれば、是非、是非。行って、受け取ってほしい。あのatmosphereを。

(うちゅうみ)




一回目の時の話はこちら→ミュシャ国立新美術館 4/29 (sat)
http://umizuha01.exblog.jp/24064904/

http://umizuha01.exblog.jp/24065249/
http://d.hatena.ne.jp/zagi39/20170409/1491706432


2017.4.30 ミュシャ展 再び

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そろそろ「凡庸な作品」「アートの文脈では評価されなかった」というネガティヴな反応も見られるようになって、この作品群が見た人に何か一言言わねばいけない、という気持ちにさせるパワーを漲らせた作品であることが世に認知されているように思う。やはりこれはもう1回観に行かねば、と思いたち、子供達にはご遠慮願って観てきた。
やはりじっくり見ると、また違う感想が出てくる。
今回、最初見た時から気になっていた「スラブ式典礼の導入」という作品をじっくり眺めなおした時、アッと思わされる気付きがあった。真ん中上空に描かれた神々がフレームの外にはみ出して描かれるという構図の破綻ぶりが気に入っていたのだが、何か既視感に襲われ、「あれ、なんだっけな?」と思いつつ見てて、はたと気がついた。デュシャンの「大ガラス」だ。
「大ガラス」とはマルセル・デュシャンが1915年から1923年にかけて制作された「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」の通称名。ガラスの上に様々な線描やオブジェを張り付けるなどして、さらに2枚のガラスにできた偶然のひび割れが後に付加されることで、一見意味不明のシュールレアリスティックな世界を描き出した作品だ。デュシャン自身がこの作品関するメモを残しており、上半分が花嫁を、下半分が独身者たちを描き、そのエロスのエナジーの交流を描いたものだというようなコンセプトの説明がなされている。この大ガラスの左に寄った独身者や花嫁が並ぶ群像の形態は「スラブ式典礼の導入」の基調となる構図と類似しているじゃないか!というか、大ガラスでの独身者たちの群像を上空から見下ろす花嫁は彼らにとっての神という措定をするなら、「スラブ式典礼の導入」におけるスラブの民草と彼らを見下ろす神々というイコノグラフィー的な構図をも一致するように思える。
ここまで試行して、さらに奇妙な符号を感じる。マルセル・デュシャンダダイズムは19世紀までのロマン主義的な神話の構図に満ちたイコノグラフィーの思考に対する反逆から、より即物的な視覚の快楽、文脈の異なる(と思われてきた)イメージ接合による意味性の解体・再構築による批評的思考が基底に存在する。
しかし、意味性を剝奪・解体して即物的な作品を制作すればするほど、それはグラフィックデザインなどの商業的意匠に吸収されてしまい、自らの芸術のアイデンティティを喪失していくことになっていくのではないか。20世紀以降のモダン・アートが抱え込んだアーティスティックなアイデンティティのゆらぎへの対抗策を輔弼したのが、「新たな神話の構築」だったのではないか。
「なんでただのゴミや傷の寄せ集めが芸術なのか?」と問われた場合、「それは見る人が決定することにする。」と突き放すのがよく見受けられるが、それは「では芸術でないと思われるので、無視する。」というカウンターパンチを食らう恐れがある。そこで「この傷の線は独身者たちのリビドーを表現しており云々」という解釈の体系を提供することで作品の存在意義を主張するというのは手っ取り早い方法であろう。実際、「大ガラス」に対して、デュシャンは「グリーン・ボックス」というメモ集ともいうべき”作品”を1934年に発表し、そのコンセプトを示唆した。人によっては「大ガラス」は「グリーン・ボックス」と一体で作品として考えるべきである、という考え方を主張している。
しかし、従来的なイコノグラフィーでは解釈できないため、その解説は一般人の理解を超えた意味の体系、悪く言えば屁理屈に近くなってゆく。さらにそれが深化すれば、神学者たる美学者でなければ解釈・理解ができない、いわば不可視の神話ともいうべきテキストになってゆく。そして、それはある種の宗教的佇まいを備えるようになる。たとえば、聖書のイコンが頻出するダリのように。神学から逃れたはずが、結局は新たな神学を求めて彷徨う。それはシュールレアリズム以降のモダンアートが抱え込んでしまったアポリアなんじゃないだろうか。
そして、その彷徨の過程はよく考えると、ミュシャが「スラブ叙事詩」に到達した道程と奇妙に一致しないか?アール・ヌーヴォーで一世を風靡したミュシャは、世評の高さとは裏腹に自らの芸術的アイデンティティに悩んだ。そしてスラブ民族史に出会うことで、その苦悩の解消場所を見つけたのだろう。しかし、作品は出来上がってみると、スラブ民族という固有名詞を離れ、もっと”向こう”にある不可視の神話体系(ミュシャが会員だったフリーメイソンの「博愛」もまたちょっと違う気がするのだが。)を現出させてしまった、というのが自分の考え方だ。だからこそ、スラブ民族の歴史をよく知らない、自分をはじめとする多くの人々にも語り掛けるものがあったのではないか、と思う。
さらにさらに、考えてみると、奇妙な符合が続く。「大ガラス」が1915年から1923年にかけての制作、「スラブ叙事詩」が1910年から1928年にかけての制作と制作時期も割と近似している。「大ガラス」は途中で制作放棄、「スラブ叙事詩」も1点未完成の作品があるところも符合を感じさせる。
シュルレアリスムの開祖である詩人のアンドレ・ブルトンは「大ガラス」を「未来の世代に対する予言的な記念碑」と評したそうだ。それは21世紀に入り、そのヴェールを脱いで日本人の前に出現したことが、実は「スラブ叙事詩」がデュシャンとが近・現代美術史において、コインの裏表として存在するという考え方の出現をも含んだ予言だったのか?
「スラブ叙事詩」が「アートの文脈からは評価されない」というのはよく理解できる。手法が古臭いとか、難点はいくらでもあげつらえるだろう。しかし、そもそもがこの作品群はそういった歴史、文脈と離れた場所から発信されているのだから、そういった批判はあまり有効ではないのではないか?と思うのだ。確かにミュシャ自身はこの作品群制作以前はアール・ヌーヴォーという輝く歴史の中を歩いてきたアーティストで、正統的な美術史の中に位置づけられている。しかし、1910年ごろ以降、「スラブ叙事詩」にほとんどかかりきりになってからのミュシャは、むしろ崩壊する建物ばかりを描き続けた17世紀の謎の画家、モンス・デジデリオ(実際はフランソワ・ド・ノメとディディエ・バラらの共同アーティスト名らしいが。)のような、想念を内側に圧縮させた孤独者の営為の文脈で理解されるべきなんだと思う。そう、これはイコノグラフィーやイコノロジーから「理解する」ではなく、絵の向こうに存在する想念みたいなものを「感じる」絵なんだと思う。その波長が合わない人には難しい作品なのかもしれない。
数年前、横浜トリエンナーレだったか、アジアのアーティストで各地で食事を作って人にふるまい、その行為や記録を「作品」として発表する人が紹介されていた。ソーシャル・アートっていうんだろうか。何らかのアート的なリソースを使うことで社会に働きかけてゆくというムーヴメントのポリシー自体には異論はないし、期待するものはある。しかし、全く個人的な感想だが、それはあくまでアートを使ったムーヴメントであり、自分が愛好し思考する「芸術」ではないと思ってる。視覚にしろ、音にしろ、言葉にしろ、手法は違っても芸術は享受する人の精神の内側に作用し、その人の精神的なステージを挙げてゆくものだと思っているか-C他者や社会に向かうといっても、その人の精神が確かで豊かでなければ、外にその力を向けることなんてできないんじゃないか?その基礎を築くのが芸術の役割なんじゃないか自分はこのように考える。そんな自分にとって、「スラブ叙事詩」はかつて経験したことがないほどすごく刺激的だったのだ。
とまぁ、美学とか美術史をろくに知らない一シロートがだらだら感想文を書き連ねてきたわけだけど、良いにしろ悪しきにしろ、インパクトは絶対大きい展示だと思うよ。終了まであと---2日。チャンスがある人はぜひ見てほしいです。
「もっと知りたいミュシャの世界 宝島社」より
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Bride_Stripped_Bare_by_Her_Bachelors,_Even
マルセル・デュシャン「大ガラス」より





「もっと知りたいミュシャの世界 宝島社」より




Warm Garden
https://umizuha.tumblr.com/
https://umizuha.tumblr.com/post/155358622951/warm-garden
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INCAPACITANTS Live mukisitu_na_kyouki 3rd-night2017.06.10
6.10(土) 東高円寺UFO CLUB 無機質な狂気 第3夜
🔯INCAPACITANTS
🔯NECROMIST MANIAORGAN + Ryosuke Kiyasu (drums)
🔯赤いくらげ
🔯ギ酸

OP18:30ST19:00前売\2500(D別)
ご予約受付中!☎︎0353060240
https://twitter.com/UFO_CLUB_TOKYO/status/867673829954396161
http://www.ufoclub.jp/

今注目のイベント「無機質な狂気」にまた出させていただくことになりました!皆様、4649です!
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=740090412831521&set=a.124042371102998.22859.100004917061193&type=3&theater

https://umizuha.tumblr.com/post/143146245656/ogawa (ギ酸)
https://umizuha.tumblr.com/post/143146037681/mania-organ
https://umizuha.tumblr.com/post/143146041851/necromist
https://umizuha.tumblr.com/post/140808366916/necromist-interview
https://umizuha.tumblr.com/post/140808374556/necromist-analyze (necromistスケジュール等)
https://umizuha.tumblr.com/post/140808383581/move-gerira-noise (necromist動画特集)
https://umizuha.tumblr.com/post/140808401611/move-improvisation (色々動画特集)

https://umizuha.tumblr.com/post/143155118661/fkosakai
https://umizuha.tumblr.com/post/140808447281/move-fkosakai-and-more
https://umizuha.tumblr.com/archive/2016/6 (インキャパシタンツ動画)
https://umizuha.tumblr.com/post/145728723516/incapacitants-survival-of-the-laziest(インキャパ新譜)


yama-akago 山安籠 は、うちゅうみUchumi

Uchumi
https://umizuha.tumblr.com/post/143146601556/yama-akagouchumi
VAVA KITORA - 4/28,2017 - 江古田FlyingTeapot https://youtu.be/rGDjgVJZ6HY @YouTubeさんから